4 神 話

 神話を題材とした川柳も数多く作られている。そこで、「古事記」(「日本書紀」)をもとに主なものを取りあげ、簡単な解説を付け、その話に関する川柳を見るという手順で、述べてみる。


伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)」

 イザナギとイザナミの男女二柱の神は、天神(あまつかみ)から「地上の様子は、海の上を脂のようなものが漂うだけである。この矛をもって、人の住めるようにしなさい」と命ぜられた。
 そこで、二人は天と地の間にある天の浮橋に立って、美しい玉飾りの付いた「天沼矛(あまのぬぼこ)」を、海の上を漂う脂のようなものに突き刺し、ぐるぐるとかきまぜた。かきまぜるにつれて、次第に固まり、矛を引き上げると、雫が落ちて最初の島「淤能碁呂島(おのころじま)」が生まれた。
 二人はその島に天降り、立派な柱を立て、新婚のための大きな屋敷を建てた。

 二人にて青海原へ竿を入れ
 逆鉾で淤能碁呂島の種おろし
 神代でも男女で二人島流し
 一本の矛は二本の土台なり
 (一本の矛から生まれたオノコロ島をもとに、日本の国土が形成されていった)

 こうして二人の結婚となった。大きな柱を両方からまわって、出会った所で、女神の方から「まあ素晴らしい男性ね」と声をかけたので、男神は、「私の方から先に言うべきだ」と不服を言った。

 女神まづ叱られ給ふ世の教へ

 もう一度やり直して、イザナギの方から声をかけて、美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)となった。イザナミは、14の島と35の神々を生み、「日本」が出来上がっていった。

 なぎとなみ和して四海を生み給う (凪と波にかけた)
 伊弉冊のみこと女房の始めなり

 日本書紀には、二人は「まぐわい」の方法を知らなかったので、セキレイが来て教えたとある。

 鶺鴒(せきれい)は人より先に色気づき
 鶺鴒は極秘を神に伝授なり
 か様遊ばせと鶺鴒びくつかせ
 ヲホホとアハハ鶺鴒の尾に見とれ
 ああ成程と伊弉諾の尊乗り
 鶺鴒は一度教へて呆れ果て
 鶺鴒の教えた外を色々に

 鶺鴒は茶臼とまでは教えねど


天照大神(あまてらすおおみかみ)」

 イザナミは、35番目の火の神を生んだ時、その火で体を焼かれ、それが原因となってこの世を去り黄泉国(よもつくに)へ旅だった。イザナギは、悲しみのあまり黄泉国へ妻を迎えに行ったが、連れ戻すことに失敗してしまう。
 戻ってきたイザナギは、黄泉国のけがれを払うため、禊ぎ・祓いをした。イザナギが左の目を洗うと天照大神が、右目を洗うと月読命が、鼻を洗うと建速須佐之男命が生まれた。
 イザナギは大変喜んで、アマテラスオホミカミに高天原を、ツクヨミノミコトに夜之食国(よるのおすくに)を、タケハヤスサノヲノミコトに海原を治めることを命じ、仕事を任せた。

 神代さへ海山陸と家督分け

 しかし、スサノヲは亡き母イザナミの国へ行きたいと、大声で泣きわめき、父神の命令に従わなかった。イザナギは大変立腹して言った。
 「私の命令に従えないなら、勝手にするが良い。そのかわり、ここから追放する。」

 勘当は神代してから男の子

 スサノヲは、母の国に行く前に、アマテラスに別れを告げようと高天原へ上った。しかし、姉と対立して、乱暴な振る舞いを繰り返したので、アマテラスは天石屋(あめのいわや)の中に身を隠してしまった。
 「日」の神であるアマテラスが天石屋の戸をぴったりと閉じてしまったので、高天原も地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)も真っ暗になり、悪い神々が、ここぞとばかり騒ぎ始まった。

 困り果てた八百万の神々は、知恵第一の黒金神(おもひかねのかみ)の策を取り入れ、岩屋戸の前で、天宇受売命(あめのうずめのみこと)が(ストリップを)踊り、神々がそれを見て、大声で笑った。
 中にいたアマテラスが、どうしてそんなに笑うのかと、岩屋戸を少し開けた時、控えていた天手力男(あめのたじからお)神が戸をこじ開けて、アマテラスを引き出したので、もとの明るさを取り返すことが出来た。
 なお、その時開いた岩戸を、タジカラオが放り投げたところ、信州の戸隠山まで飛んでいったということになり、タジカラオは、戸隠山から来た神で、戸隠明神になったという伝説が生まれた。
 また、後に、「日の本は岩戸神楽の昔より女ならでは夜の明けぬ国」という狂歌が作られた。

 わっさりと岩戸開けんと四方の神 (わっさりと:賑やかで威勢がいい)
 明け給うまでは神楽も面黒し (暗くてよく見えないので、面白くは無かった。だろうと)
 天の戸をうすめに開く賑やかさ (宇受売と薄目をかけた)
 戸隠も神楽の中(うち)は髭を抜き (暇だったので)
 戸隠は手の這入る程開くを待ち
 戸かくしは油の直(ね)段ぐつと下げ (世の中明るくなったので、油の値段が暴落した)
 信濃へ地響きがして日が当たり
 信濃から幕引きの出る大仕掛
 日本中ズシリといふと天照らし
 神代でも女でなけりゃ夜が明けず


建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)」

 高天原を追放されたスサノヲは、出雲の国、肥河(ひのかわ、後の斐伊川)に降った。川を眺めていると箸が流れてきたので、上流には人が住んでいるのだろうと、上っていくと、老夫婦と娘が泣いていた。
 事情を聞くと、老夫婦は足名椎(あしなづち)・手名椎(てなづち)、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)と言い、泣いていたわけは、八岐大蛇(やまたのおろち)という怪物が、毎年あらわれて、娘を一人ずつ餌食とし、とうとう最後に残されたクシナダヒメの番になってしまったのだと言う。

 生贄の親は手足でなげくなり (足名椎と手名椎なので)

 スサノヲは、クシナダヒメを櫛に変えて自分の髪に挿し、老夫婦に命じて、八つの酒槽(さかぶね)に強い酒を満たして、大蛇を待った。やがてあらわれた大蛇は、酒にひかれて、飲み始め、酔いが回って寝込んでしまった。
 すかさず、スサノヲは大蛇の頭を次々と切り落とし、更に大蛇の胴体も切り刻んだ。中程の尾の部分を切った時、剣先に当たるものがあり、取り出してみると、素晴らしい太刀であった。あまりに見事なものなので、アマテラスに献上された。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれ、後に草薙剣と呼ばれた(後述)。

 神代にもだます工面は酒が入り
 神代にもだますは酒と女なり
 神代(じんだい)の物入り瓶を八つ買い
 蛇(じゃ)よりまづ尊(みこと)一杯きこしめし

 どつちらも好きで大蛇はしてやられ (酒と女で身を滅ぼす)
 宝剣は大蛇が下戸なりや今に出ず
 その昔いもを見込んだ八ッ頭 (いもは、妹と芋をかけた)
 八ッ頭いまは娘が好いて食ひ

 スサノヲはクシナダと婚儀を行うにふさわしい場所を見つけ、新しい宮殿を建てた。そこで、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ。

 八雲から次第に晴れる和歌の道
 八重垣は三重に作って妻を入れ

 二十四重垣根へ妻をこめるなり (八重垣×3)
 すさのおも舅は手足がらみ也
 すさのうの大蛇を稲田姫はのみ

 スサノヲは多くの神を生んだが、その6代目の子孫が、大国主命(おおくにぬしのみこと)である。オオクニヌシは縁結びの神となったので、

 依怙贔屓無きは出雲の組合せ
 大社(おおやしろ)手数のかかる丙午 (ひのえうま生まれの女は、夫を食い殺すと言う俗説から)
 仲人へ渡して神は知らぬ顔
 出雲から叱られそうな縁結び (今どきならば、出来ちゃった婚)


猿田彦(さるたびこ)」

 アマテラスは、豊葦原之千秋之長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきのながいおあきのみずほのくに=日本)を治めさせようと、孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)に三種の神器を授けて、葦原中国(あしはらのなかつくに=豊葦原水穂国)へと降臨させた。(天孫降臨)
 一行が降りて行くと、高天原と葦原中国との間に、一人の神が待っていた。その神は「自分は国神(くにつかみ)の猿田彦で、天孫の道案内をしようと待っていた」という。そこで、猿田彦を先に立てて、下界へ降りた。

 神々の部できやんらしい猿田彦 (きゃん;侠 侠客  女ならおきゃん)

 祭礼の先頭を猿田彦(天狗)が行くのは、この神話によるものである。しかし、面をかぶって歩くと言うことで、いやがってなり手がいなかった。

 町内の仏捕へて猿田彦 (仏のような好人物に、押しつけた。神祭りに、仏とは・・・)
 役不足言ふなと猿田彦にする
 猿田彦借金の無い歩きやう
 猿田彦いつぱし神の気で歩き

 
 天狗の面を着け、高足駄を履いているので、

 猿田彦坂際へ来て嗅ぎ廻し (坂道にさしかかって、足下をたしかめる様子は、嗅ぎまわっているようだ)
 猿田彦鼻を握つて汗をふき (休憩で、面をはずして)
 猿田彦角を生やして吸ひ付ける (面を挙げて、煙草を吸っている。長い鼻が角のようだ)


海幸彦・山幸彦

 ニニギは、日向国の高千穂に降臨して、薩摩半島の笠沙(かささ)で出会った木花佐久夜姫(コノハナサクヤビメ)と結婚した。すぐに妊娠したが、ニニギが信用しなかったので、「天津神の子ならば、どんな条件の下でも、無事に生まれます」と言って、扉のない産屋を作り、その中で火を付けてお産をした。
 火の中で無事生まれた事で、ニニギの子である事を証明し、三人の子に、火照命(ほてりのみこと)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(ほをりのみこと)と名前を付けた。

 三人のうち、ホテリは海で魚を捕るのが得意で海幸彦、ホヲリは山で猟をするのが得意で山幸彦と呼ばれるようになった。
 ある日、二人はそれぞれの得意とする道具の釣り針と弓矢を交換して、猟と漁をやってみたが、どちらもうまくいかず、おまけに山幸彦は、釣り針まで取られてしまった。
 兄の海幸彦に、どうしても釣り針を返せと迫られた山幸彦が、途方に暮れていると、潮流の神である塩土(しおつち)の翁が通りかかった。
 翁に教えられて、海神(綿津見神)の竜宮に行き、鯛の口にかかっていた釣り針を取り戻し、海神の娘豊玉姫と結ばれた。
戻ったホヲリは、海神からもらった塩盈珠(しおみつたま)と塩乾(ひる)珠を使って、潮の干満を操り、兄ホデリを屈服させた。

 神代にも曲がつた論は釣りの針
 釣り針の糸竜宮の縁結び
 釣針の難儀がすぐに仲人し


 その後、竜宮から妊娠をしていたトヨタマが来たので、鵜の羽を集めて産屋を作ろうとしたが、未完成のうちに子が生まれてしまった。その時、本来の大きなワニ(八尋鰐)の姿に戻って出産した事を、ホヲリに見られてしまったトヨタマは、恥じ入って、子を置いて竜宮へと帰ってしまった。
 未完成の産屋で生まれた皇子は、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と名付けられ、この皇子の子 神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)が、日本の最初の天皇 神武天皇となった。

 御産所を葺き合はせずに御誕生
 間に合はずうかやうかやの御産声
 大変蛇(たいへんじゃ)産所を尊御覗き


 ここで、系図をまとめておく。

 アマテラス―○―ニニギホヲリウガヤフキアエズ―初代神武天皇―…―7代孝霊天皇―…―12代景行天皇―ヤマトタケル―14代仲哀天皇(皇后:オキナガタラシヒメ=神功皇后


富士山

 宝永4(1707)年、富士山中腹が噴火し、宝永山が生まれた。このことから富士山への関心が高まり、北畠親房の「職原鈔」や寺島良安の「和漢三才図会」に書かれた、「富士山は、孝霊五年に、近江国の土が駿河へ飛んで、一夜にして生まれた。またその後が陥没して琵琶湖になった」という説が信じられるようになって、多くの川柳が作られた。

 孝霊五年あれを見ろあれを見ろ
 打ち出でて見ればびっくり孝霊五
 (山辺赤人の「田子の浦に・・」の和歌から)
 やれ起きろ山が出来たとさわぐ也
 日本の掘り出し物は富士の山
 孝霊の夜なべは大きな仕事なり
 孝霊に近江の年貢皆無也
 (天地異変で、大凶作)
 親玉の山も神武の七代目 (親玉の山=富士山 折しも、七代目市川団十郎が人気を博していた)
 夜が明けて近江初めて波の音
 

 宝永山については、
 
 咲耶(さくや)姫俗名おふじ様といい (富士山の浅間神社は、木花佐久夜姫を祀っている)
 咲耶姫宝の山を一つ産み 
 余の山と違ひ子宝までも持ち



日本武尊(やまとたけるのみこと)」

 ヤマトタケルは、12代景行天皇の皇子で、小碓命(おうすのみこと)と呼ばれた。天皇は、西の方に勢力を拡大して、朝廷に従わない熊曽武(くまそたける)を、征伐するように命令された。
 ミコトは、女装してタケルに近づき、殺害に成功した。タケルは、死に際に、ミコトの知勇を讃えて、「倭建皇子(やまとたけるのみこと)」と名乗るように勧め、以後、そう呼ばれるようになった。

 女形その始まりは日本武(やまとたけ)
 大和屋武(やまとやたけ)と申したき御仕打
 (女形で有名な五世岩井半四郎の屋号「大和屋」にかけて)
 嫁の吹き替へ魯智深と日本武 (「水滸伝」の魯智深(ろちしん)も、女装をして盗賊を懲らしめたので)

 都へ戻ったミコトに、天皇は、休む間もなく、東国の平定を命じた。ミコトは、伊勢の皇大神宮に倭比売命(やまとひめのみこと)を訪ね、天皇に疎まれていることを訴えた。ヤマトヒメは、もし緊急な事態になったら使うようにと、「天叢雲剣」(前述)と火打ち石の入った袋を渡した。
 駿河の国(古事記では相模の国)に着いたところで、謀に合い、草原で周りから火を付けられて、焼き殺されそうになった。ヤマトヒメの言葉を思い出し、剣で周りの草を薙ぎ払い火打ち石で火を付けると、炎が逆に流れて助かった。
 このことから、この地は焼津(やきつ=現在の焼津市)と呼ばれるようになり、剣は、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるようになった。

 燃え出づる草を氷で薙ぎ給い (氷のような剣)
 御神徳氷で草の火を鎮め
 名は鎌にひとしけれども御宝剣

 熱田とはいえど氷の御神体 (後、草薙剣は熱田神宮のご神体となった)

 その後、タケルは相模から上総へ行こうとしてして、走水海(はしりみずのうみ=浦賀海峡)を渡ろうとしたところ、海の神の怒りを受け、暴風雨となり、船が沈みそうになった。
 そこで、后の弟橘比売命(おとたちばなのひめのみこと)が、生贄となって、海に身を投じたため、海の神の怒りが静まり、上総へ上陸することが出来た。

 身を捨てて名に立ち花の御操 (橘に掛けて)
 身は散つて名は立ち花の御操

 陸奥国まで平定しての帰りに、タケルは、足柄の峠と碓氷峠で、亡きオトタチバナを偲んで、「吾妻はや」と言った。このことから、東国は「あずま」と呼ばれるようになった。

 峠にて橘姫を懐かしみ
 橘を峠の嶺で懐かしみ
 海に入る操を山で御慕い
 吾が妻に縁もうすいと御嘆き
 (薄いと碓氷)
 さてさてうすい縁よな吾が妻よ
 吾妻とは深き神慮の日本文字


神功皇后(じんぐうこうごう)・武内宿祢(たけのうちのすくね)」

 (ヤマトタケルの子で)第14代の天皇となった仲哀天皇の皇后は、息長足媛(オキナガタラシヒメ)で、神功皇后と呼ばれた。九州の熊曽との戦いの最中に、仲哀天皇は亡くなったが、同行していた神功皇后は、妊娠中ではあったが、夫の志を受け継いで、熊曽とそれを裏で扇動していた新羅を討とうとした。(三韓征伐)
 皇后は、戦いの成否を占ったが、その方法は、飯粒(いひぼ)を餌に、鮎を釣るというもので、見事に鮎を釣って、新羅との戦いに勝利を収めた。

 箱入りの後家が新羅へ釘を差し
 御気長足(おきながたらし)出陣に鮎を釣り
 (御気=息 名前の通り、気を長くして、鮎を釣った)
 腹に子が有つて后宮(こうきゅう)鮎を釣り 
 釣り給ふ魚は神慮のお占い
 釣り給ふ吉事御身も子持ち鮎
 鏑矢で陣笠へ掘る鮎の餌


(巴御前も、妊娠中に戦った女性として知られている。<2「歴史上の人物(政治編)」>を、ご覧下さい。)

 武内宿祢は、283歳で死に、その間、垂仁・景行・成務・仲哀・応神・仁徳の六朝に、244年間仕えたという。もちろん、神功皇后にも仕え、三韓征伐にも同行した。

 年寄りを杖に皇后御頼み
 皇后は武を万里の杖となし
 百済(ひゃくさい)へ御供の頃は二百歳
 (百済をひゃくさい(百歳)と読んで、語呂合わせ)
 六朝に仕へた竹は弓になり (竹=武 弓になり;腰が曲がった)
 武の内女帝を補佐に隠居役

 三韓征伐後、神功皇后は、九州で出産した。生まれた子は15代の応神天皇となる。なお、応神天皇を首座とし、比売神・神功皇后を会わせた三神が、八幡神(八幡大菩薩)で、弓矢の神(武神)として、後の武士の時代に、長く信仰された。

 三韓の帰陣御船へ酢をと御意 (酢は、産婦の気付けに使われた)
 潮満ちて船を早めの御凱陣
 甲冑で取揚げさがす宇佐の町
 八幡を取揚げぢぢい武の内
 武の内取揚げぢぢいの元祖なり
 さればこそ弓矢の神の御誕生
 安産の元祖尊き弓矢神
 武の内お孫様かと度度聞かれ



久米仙人

人が降ったと洗濯やめて逃げ
仙人様ーっと濡れ手で抱き起こし
仙人の顔へたらいの水を吹き
洗濯をやめやれ気付けやれ気付け
仙人の目にちらついた雪の肌
たなびく雲の絶え間より久米どさり
雲間見をしたが久米仙落ち度なり
 (普通は垣間見だが、雲の上だったので)

毛が少し見えたで雲を踏みはずし (白いスネが見えたくらいでは、落ちない)
くろいとこ見ようものなら久米即死
洗濯のそばへ太竿下げて落ち
久米のスコタン聞いたかと仙仲間 
(スコタン(スカタンとも言う):まぬけ、当て外れなどをののしる言葉。 仙仲間:仙人仲間)
女湯を見たらとそしる仙仲間


仙人を素人にする美しさ (実は、女の方が上手だった? 結局、二人は夫婦になる))
仙人を生け捕りにする洗濯し
仙人も還俗をして糊を売り



浦島太郎

浦島の尻六角な形(かた)だらけ (亀の背中に乗ったので)
浦島の帰朝女房はどなた様 (よぼよぼになって帰ってきたので・・・、しかし、300年経っているので、女房は生きていないはずなのだが???)
浦島は歯茎を嚙んでくやしがり (歯も抜けていたろうと・・・)
亀曰く浦島はなあ若死にだ (亀は万年)






この辺りまでが、神話の世界のようです。この後は、2,3「歴史上の人物」をご覧下さい。
とりあえず、ここで終わります。後日、新たに付け加わることがあるかも知れませんが、その時は、「お知らせ」で。

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